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マーヴェレッツ [モータウン]

マーヴェレッツ

アメリカ合衆国の女性コーラス・グループ。
1961年発表のデビュー曲「プリーズ・ミスター・ポストマン」の大ヒットで知らよぅ~ん。

ミシガン州インクスターの高校に通う、アフリカ系アメリカ人の女子学生により結成された!
当初はCasinyetsというグループ名だったが・・・、その~後ザ・マーヴェルズ(The Marvels)と改名。
デビュー前のメンバーはグラディス・ホートン、ジョージア・ドビンズ、キャサリン・アンダーソン、ジョージアナ・ティルマン、ジュアニータ・カウアトの5人。

マーヴェルズは、地元のタレント・ショウに出演。
上位3組がモータウンのオーディションを受ける権利を得られるという条件で、マーヴェルズは4位だったが・・・、彼女たちの学校の教師がモータウンを説き伏せ、彼女たちもオーディションを受けることができた!
そして、モータウンからオリジナル曲が必要だとアドバイスされ、ジョージア・ドビンズが「プリーズ・ミスター・ポストマン」の原案を思いつく。
ジョージアの友人であるウィリアム・ギャレットや、モータウン専属のソングライターも協力し、曲は完成するが・・・、ジョージアはグループを脱退し、後任としてワンダ・ヤングが加入。
名前もマーヴェレッツに改めることとなッた!

1961年8月にデビュー・シングル「プリーズ・ミスター・ポストマン」がリリースされると~、徐々にヒットしていき、最終的にはR&Bチャートとポップ・チャートの両方で1位を獲得。
モータウンからリリースされたシングルとしては、初の全米1位獲得を果たした!
この曲は、後にビートルズやカーペンターズとかとか~、多くのアーティストにカヴァーされるよ~ん。
同年には、同名のファースト・アルバムも発表された!
リード・ボーカルは、グラディスとワンダが半々の割合で担当。

1962年、ワンダ・ヤングが一時的に脱退したため、セカンド・アルバム『The Marvelettes Sing』では4人編成となッた!
この頃、ディー・ディー・シャープ(Dee Dee Sharp)が「プリーズ・ミスター・ポストマン」に酷似した楽曲「マッシュポテト・タイム(Mashed Potato Time)」を大ヒットさせていたが・・・、『The Marvelettes Sing』では「マッシュポテト・タイム」のカヴァーを収録するという意趣返しがなされているンッ!
ワンダは間もなく復帰し、シングル「プレイボーイ」がR&Bチャート4位、ポップ・チャート7位という大ヒットとなるが・・・、1963年にはジュアニータ・カウアトが脱退して再び4人となる。
また、ワンダはこの頃、ミラクルズのボビー・ロジャースと結婚し、以後ワンダ・ロジャースと名乗る(後に離婚)。

1966年には、スモーキー・ロビンソンが書き下ろした「Don't Mess with Bill」が久しぶりの大ヒットとなるが・・・、1967年にはジョージアナ・ティルマンが脱退。
グループはグラディス、ワンダ、キャサリンの3人となッた!
この頃、ヴァン・マッコイ作の「When You're Young and in Love」がイギリスでもヒットし、全英13位に達した!
しかスィ~、リード・ボーカリストの1人だったグラディス・ホートンも出産のため脱退。
アン・ボーガンが後任として加入した!
テンプテーションズのメルヴィン・フランクリンがゲスト参加した「My Baby Must Be a Magician」はR&Bチャートのトップ10に達したが・・・、マーヴェレッツは勢いを失いつつあり、1969年のアルバム『In Full Bloom』はチャート・インを果たせなかった!

1970年のアルバム『Return of the Marvelettes』は、当初ワンダ・ロジャースのソロ・アルバムとして計画されていたが・・・、最終的にはグループの作品となる。
そして、モータウンはデトロイトからロサンゼルスに移転することになるが・・・、マーヴェレッツはロサンゼルス行きを望まず、1970年に解散。

2004年、ボーカル・グループの殿堂(The Vocal Group Hall of Fame)入りを果たした!

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テンプテーションズ [モータウン]

テンプテーションズ

アメリカのコーラス・グループ。
1960年代に「マイ・ガール」等のヒット曲を出した、モータウンを代表するグループの一つ。
1989年にロックの殿堂入りを果たした!

1961年にモータウンからデビュー。
当時のメンバーはオーティス・ウィリアムス、メルヴィン・フランクリン、エディ・ケンドリックス、ポール・ウィリアムス、エルブリッジ・ブライアントの5人。
しばらくはヒットに恵まれなかった!
1964年、エルブリッジの後任としてデヴィッド・ラフィンが加入、いわゆる黄金時代となる。
スモーキー・ロビンソンとロナルド・ホワイトが作り、デヴィッドがリード・ヴォーカルを担当した「マイ・ガール」が・・・、全米チャート1位に輝いた!
その~後もヒット曲を量産。
1968年にデヴィッドが脱退し、デニス・エドワーズが加入。
アルバム『クラウド・ナイン』(1969年)は、ファンクを意識した音作りと社会派の歌詞を取り入れた意欲作となッた!
1971年には「ジャスト・マイ・イマジネイション」が全米1位となる。
デビュー当時からのメンバーだったエディとポールが脱退するが・・・、デーモン・ハリスとリチャード・ストリートを加えた新体制で、1972年に「パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」を全米1位に送り込む。
なお、ポールは1973年に死去。
1970年代後半にアトランティックに移籍するが・・・、1980年代にはモータウンに戻る。
その~後もメンバー・チェンジを繰り返し、1995年には、デビュー当時からのメンバーはオーティス一人となッッてしまうが・・・、現在もテンプテーションズの名前は引き継がれているンッ!


マイ・ガール(My Girl) - 1964年発表、グループにとッッて初の全米1位を獲得。
オーティス・レディング、ローリング・ストーンズ、ママス&パパスがカヴァー。
後年、映画『マイ・ガール』の主題歌になり、リバイバル・ヒットした!
また、日本では1983年にサントリーオールドのCMに使われた他、2007年にフジテレビ系ドラマ花嫁とパパ』でも、加藤ミリヤとCOLORによるカヴァー・ヴァージョンが使われた!

エイント・トゥー・プラウド・トゥ・ベッグ(Ain't Too Proud To Beg) - 1966年発表、全米13位。
ローリング・ストーンズがカヴァーした!

アイム・ルージング・ユー((I Know)I'm Losing You) - 1966年発表、全米8位。

雨に願いを(I Wish It Would Rain) - 1967年発表、全米4位。ロッド・スチュワート&フェイセズがライヴで取り上げた!

クラウド・ナイン(Cloud Nine) - 1968年発表、全米6位。映画『永遠のモータウン』では、ファンク・ブラザーズとミシェル・ンデゲオチェロが・・・、この曲を共演。

ボール・オブ・コンフュージョン(Ball Of Confusion(That's What The World Is Today)) - 1970年発表、全米3位。デュラン・デュランやプレイング・マンティスがカヴァー。

ジャスト・マイ・イマジネーション(Just My Imagination) - 1971年発表、全米1位。
ローリング・ストーンズがカヴァー。

パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン(Papa Was A Rollin' Stone) - 1972年発表、全米1位。



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ザ・スプリームス [モータウン]

ザ・スプリームス

アメリカの黒人系女性ボーカル・グループ。
1959年結成、1977年解散。
長い活動期間の中で所属レコード会社や音楽性は何度か変わッッているが・・・、その~全盛期は1964年から1969年までであるびょ~ん。


1959年、ザ・プライメッツ(The Primettes)として結成。
オリジナルメンバーは、ダイアナ・ロスとメアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードにベティ・マグロウンの4人。
ベディはすぐバーバラ・マーティンに替わり、その~バーバラも抜けて1961年、ザ・スプリームスと改名してモータウンと契約した頃には3人組となッッていた!

スプリームスは、モータウンの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアの強力なプッシュを受け、ホーランド=ドジャー=ホーランドの作曲・プロデュースの下でヒットを連発した!
そして、1964年の「Where Did Our Love Go? (邦題:愛はどこへ行ったの)」が・・・、初の全米No.1となッたのを皮切りに、シングルが5作連続全米No.1を記録、スプリームスは一躍全米のアイドルグループとなる。

その~後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなッた「Someday We'll Be Together (邦題:またいつの日にか)」まで、合計12作の全米No.1ヒットを生み出した!

1967年、ベリーのダイアナだけを前面に押し出した売り方に不満を募らせ、アルコール中毒に陥ったフローレンスが解雇され、シンディ・バードソングが加入。
グループ名も、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス(Diana Ross & the Supremes)となッた!
フローレンスは、その~後ソロ歌手として2枚のシングルを出したがヒットせず、1976年に亡くなッッている(この悲劇を脚色して描いたのが・・・、ミュージカル「ドリームガールズ」である)。
1969年には、ダイアナが独立し、ソロに転向・替わりのリード歌手としてジーン・テレルが加わる。

ダイアナの抜けた70年代以後のザ・スプリームスは、ベリーの強力な後ろ盾を失ったことで次第にヒット・チャートからは遠ざかったものの、メアリーをリーダーとしてメンバーを入れ替えながら活動を続けた!
1972年には、シンディの代わりにリンダ・ロウレンスが参加。
1973年、ジーンとリンダが脱退し、再参加となるシンディとシェリー・ペインが加入。
1976年には、再びシンディが抜け、代わりにスーゼイ・グリーンが参加した!

1977年、最後のオリジナルメンバーであったメアリーが独立を決意し、ロンドンでフェアウェル・コンサートが行われた!
一般的には、この時点でスプリームスの歴史は幕を閉じたとされているンッ!

1986年、元メンバーであるジーンとシェリー、リンダの3人が集まり、新たにスプリームスとして活動を再開するッッて!
オリジナルメンバーのいないこのスプリームスは、The FLOS(The Former Ladies of the Supremes 、「元・スプリームスの淑女たち」の略)と呼ばれて、オリジナルとは区別されているンッ!
ジーンの引退とかとか~、若干のメンバーチェンジを経て、このグループは現在も活動を続けているンッ!

一方、全盛期のメンバーであるダイアナとメアリー、シンディの3人での再結成の動きもなくはなかったが・・・、1983年、NBCテレビの特番での騒動をきっかけに、ダイアナとメアリーの不仲が表面化し、マスコミで報じられた!

1988年、ロックの殿堂入りを果たす。

2000年、ダイアナは、スプリームス再結成ツアーの計画にメアリーとシンディを誘ったが・・・、プロモーターの提示するダイアナとの待遇の違いから2人は固辞、代わりに FLOSからリンダとシェリーが加わったが・・・、高価なチケット代金に加えて全盛期のメンバーでない2人への風当たりは強く、この中途半端な再結成プロジェクトは、ツアー半ばで打ち切られた!


彼女達をモデルとしたミュージカル「ドリームガールズ」が・・・、1981年に初演。
2006年には、映画版「ドリームガールズ」が公開された!
ダイアナをモデルとしたディーナ・ジョーンズ役に、ビヨンセ・ノウルズ、フローレンス・バラードをモデルとしたエフィ・ホワイト役にジェニファー・ハドソン、メアリー・ウィルソンをモデルとしたローレル・ロビンソン役にアニカ・ノニ・ローズ、シンディ・バードソングをモデルとしたミシェル・モリス役にシャロン・リールが配役。
なお、スプリームスを売り出した、モータウンの創設者ベリー・ゴーディ・ジュニアをモデルとしたカーティス・テイラー・ジュニア役にジェイミー・フォックスが配役されているンッ!

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プリンス [モータウン]

プリンス(1958年6月7日 - )

アフリカ系アメリカ人のポピュラー音楽のミュージシャン。
本名、プリンス・ロジャーズ・ネルスン(Prince Rogers Nelson)。
ミネソタ州ミネアポリス出身で、現在に至るまで同地に在住しているンッ!
1984年頃まで1961年生まれということにしていた!
シングル、アルバムの総売り上げは8,000万枚に昇る。

1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでおり、俗に言うミネアポリスサウンドの中心的存在であるびょ~ん。
一方、その~強すぎる個性や存在感から「聴かず嫌い」され易く、批評家達の間でも賛否が大きく分かれるミュージシャンの一人でもあるびょ~ん。
この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいるンッ!
その~特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。
多種多様な楽器を演奏できるのに加え、ジェームズ・ブラウンの流れを継いだ滑る様なステップやスプリット(股割り)、マイクスタンドを用いたさまざまな技とかとか~のダンスパフォーマンスの才能においても観客を沸かせることが出来たが・・・、近年ではそれらのパフォーマンスを行うことは殆ど無くなッッてしまった!

ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第1位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第30位。

曲のタイトル・歌詞の特徴として、to は「2」、for は「4」、you は「U」、are は「R」とかとか~同音異字を用い、I (アイ) は「eye」の表象文字で記載されているンッ!

イメージカラーは主に「紫」。
これは「Purple Rain」発売前からであり、むしろこのタイトルがこのイメージに合わせたとも考えらよぅ~ん。

初期のころからセクシャルなイメージが強く、「I Wanna Be Your Lover」のミュージックビデオにビキニパンツにレッグウォーマーという衣装で出たり、アルバム「Lovesexy」のジャケット問題、さらには臀部が全開のパンツでパフォーマンスしたりと様々な逸話があるびょ~ん。
またアルバム「Purple Rain」は収録曲「Darling Nikki」の露骨に卑猥な歌詞によりティッパー・ゴアによる「問題のある内容のレコード」に貼るウォーニング・ステッカーの第一号となッた!
しかし近年では、改宗を期に「古くからのファンも家庭を持つ年齢になッたから」とセクシャル路線をやめることを宣言した(後はマドンナに任せるとも言ッッている)。
ワーナーとの契約解消以降はアルバムの販売とかとか~も特殊な方法をとることが多く、日本での露出は同い年のマイケル・ジャクソンやマドンナと比較しても極端に少ないな~い。

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ダイアナ・ロス [モータウン]

ダイアナ・ロス(1944年3月26日 - )

アメリカ合衆国の歌手。
アメリカで最も成功した黒人女性歌手の一人であり、ブラックミュージック界の大御所であるびょ~ん。

ミシガン州デトロイト出身。
ハイスクール時代の1959年に、女性4人組のコーラス・グループ、プリメッツを結成。
プリメッツは、1961年にモータウンと契約、3人組となッッてシュープリームスとしてデビュー。

ダイアナは、シュープリームスのリードシンガーとして『ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ』『恋はあせらず(You Can't Hurry Love)』『キープ・ミー・ハンギン・オン』とかとか~、数々のヒット曲を放ち、トップスターの仲間入りを果たす。
ほとんどのヒット曲は、モータウンの看板作曲家チームのホーランド=ドジャー=ホーランドの作品であるびょ~ん。
元々、ダイアナ一人が目立ッッていたスプリームスだったが・・・、1967年にはメンバーチェンジを機に、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと正式にグループ名が変わった!

スプリームスの人気が一段落した1970年に、ダイアナはグループを脱退。
ソロ歌手として活動を始める。
ソロ転向後も、同年リリースの『エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ』を皮切りに、『タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング』『マホガニーのテーマ(Theme From 'Mahogany'(Do You Know Where You're Going To))』(日本では、ネスカフェのCM曲としても有名)とかとか~の全米1位ヒットを放ち、スーパースターとしての地位を確立した!

映画女優としても1972年、ビリー・ホリデイの伝記映画『ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実』に主演として起用され、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた!
主題歌がヒットした『マホガニー』でも主演を務めているンッ!

1980年の『アップサイド・ダウン』では、ナイル・ロジャースのプロデュースによるディスコ・サウンドとセクシーなイメージ戦略で新境地を開いた!
翌1981年には、ライオネル・リッチーとのデュエット曲『エンドレス・ラブ』が全米1位を記録。
現在も、デュエット・バラードの定番となッッているンッ!

1984年に不慮の死を遂げたマーヴィン・ゲイ(1973年にデュエット作をリリース)に捧げた『ミッシング・ユー』の後は、アメリカではヒットに恵まれていないが・・・、イギリスでは引き続き安定した人気を誇ッッていたほか、日本でも1990年に『イフ・ウィー・ホールド・オン・トゥゲザー』がテレビドラマ『想い出にかわるまで』の主題歌や、『とんねるずのみなさんのおかげです』の挿入歌として起用され、洋楽では異例のヒットを記録しているンッ!

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリード・ボーカルを採った!

1990年代以降は、公私に渡るトラブルもあり第一線からは退いているが・・・、ポピュラー音楽界の偉人であることから、記念イベントとかとか~で時折顔を見せているンッ!
2000年には、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで行われた「ディーヴァズ・ライヴ“ダイアナ・ロス・トリビュート”」に、マライア・キャリーやドナ・サマーらと共に出演し、2005年にはアイルランドのアイドルグループ、ウェストライフがダイアナとのデュエット曲をリリース、久々の現場復帰を果たした!
また、幼い頃から親交が深いマイケル・ジャクソンの、遺言書にマイケルの子供達の後見人であるマイケルの母キャサリン亡き後の後見人に指名されているが・・・、マイケルの追悼式や埋葬式には出席しておらず、これを受けるかに関しても公に発言していないな~い。


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ライオネル・ブロックマン・リッチー・ジュニア [モータウン]

ライオネル・ブロックマン・リッチー・ジュニア(1949年6月20日 - )

アメリカのシンガー、ソングライター、ミュージシャンであるびょ~ん。
ブラックミュージックの枠を超えた黒人のポップスターとして評価の高いアーティストの一人。
なお、現在までの全世界アルバムトータルセールスは、一億枚以上を誇ッッているンッ!

1974年にコモドアーズのヴォーカルとしてデビュー。
1982年からはソロ活動を行うようになり、1983年にリリースされたアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』は、全世界でトータルセールス2000万枚を超える彼の一大出世作であるびょ~ん。
そんな彼の代表曲でもある「エンドレス・ラブ」や「オール・ナイト・ロング」等は、時代を超えるR&Bのスタンダードナンバーとして、現在も非常に人気が高い。

プライベートでは、1975年に大学で知り合ったブレンダ(Brenda Harvey)と結婚しており、彼女と共に、1983年にニコール・リッチーを養子に迎え入れているンッ!
しかしブレンダとは、1993年に離婚が成立した!
ちなみに、その~際に支払った慰謝料は、25億円と言われているンッ!


デビュー

アラバマ州タスキーギ出身。
1968年、タスキーギ大学在学中にコモドアーズを結成。
同大学卒業後、オーバーン大学の大学院に学んだが・・・、後にモータウンと契約し、ジャクソン5のバック・バンドを務める。
ライオネルは、サックスを担当していた!


コモドアーズ

コモドアーズは、1974年にアルバム『マシン・ガン』でデビューするッッて!
当初は、演奏面に比重を置いたファンク・バンドであったが・・・、やがてライオネルの甘い歌声をフィーチャーしたバラード曲「イージー」とかとか~のヒットを飛ばし、その~路線を押し進めるようになる。

ライオネルは、作曲家としても数々のアーティストに曲を提供、ケニー・ロジャースの「レイディ」は、1980年に全米1位の大ヒットとなる。
翌1981年には、ダイアナ・ロスとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」も、全米1位の大ヒットを記録した!
現在もデュエット・バラードの定番となッッているンッ!


ソロ活動

1982年、ライオネルはコモドアーズを脱退し、ソロ活動を開始するッッて!
同年に「トゥルーリー」が大ヒット。
翌1983年に発表したアルバム『オール・ナイト・ロング(Can't Slow Down)』からは「オール・ナイト・ロング」、「ハロー(心の扉)」とかとか~の大ヒット曲が生まれ、ライオネルは一躍アメリカを代表するスーパースターとなッた!

1985年にはマイケル・ジャクソンとの共作で、USAフォー・アフリカのチャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲。
居並ぶスーパースターたちの中で名誉ある歌い出しを務めた!
1986年発表の『セイ・ユー、セイ・ミー(Dancing on the Ceiling)』からは「セイ・ユー、セイ・ミー」が5曲目の全米1位を獲得するが・・・、この後ライオネルはしばらく表舞台から退いた!
なお、「セイ・ユー、セイ・ミー」でアカデミー歌曲賞を受賞しているンッ!

1996年に、10年ぶりとなる復帰作を発表し、その~後もマイペースでアルバムを発表しているが・・・、ヒットはしていないな~い。
近年では、養子の娘ニコール・リッチーがテレビパーソナリティとして人気者となッッており、また、離婚した元妻から請求された莫大な慰謝料と豪勢な生活ぶりが報じられるとかとか~、音楽以外の面で話題になッッてしまッッているンッ!

2006年、2年ぶりのアルバム『カミング・ホーム』がBillboard 200で初登場6位にランクインし、彼にとッッて初めてとなるBillboardチャート初登場TOP10入りを果たした!
その~後もセールスを伸ばし続け、結果的に50万枚以上を売り上げ、全米でゴールド・ディスクを獲得。
久々のヒット作となッた!

2009年、3年ぶりとなるニューアルバム『ジャスト・ゴー』をリリースし、Billboard 200で初登場24位にランクインした!
今作では、エイコン等の新鋭アーティストとも共演を果たしており、非常にポップな作品となッッているンッ!

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ジャクソン5 [モータウン]

ジャクソン5

1962年から1990年にかけて活動したアメリカのポピュラー音楽の5人組グループ。
インディアナ州ゲーリー出身。

主にR&B、ソウル、ファンク、後期にはディスコとかとか~のジャンルを歌った!
1970年代初めにおける「ポップ・ミュージックの最も大きな現象のひとつ」であるとの評価もあるびょ~ん。
また、リード・ヴォーカルであるマイケル・ジャクソンの歌手としての最初のキャリアとしての面も注目されるよ~ん。

キャサリン・ジャクソンとジョセフ・ジャクソンの息子たち、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、マイケルの5人がメンバー。

後にジャーメインに代わッッて末弟のランディが加わり、ジャクソンズとグループ名を改めた!
1962年の結成当初は幼いマーロンとマイケルはメンバーに含まれてはおらず、父ジョセフをマネージャーとして年長のジャッキー、ティト、ジャーメインの3人と~、レイノー・ジョーンズ(Reynaud Jones)、ミルトン・ハイト(Milton Hite)(後ろの2人はジャクソン家との血縁関係はない)の5人で結成された!
しかしそれから1年とたたないうちにマーロンとマイケルを加え、マイケルをリード・ヴォーカルとした!
1960年代半ばまではアメリカ東部および中東部で活動していた!

1968年から1975年までモータウンと~、1975年から1990年の解散まではエピック/CBSレコード(CBSとの契約時に「ジャクソンズ」と改名)とレコード契約を結ぶ。
デビュー曲「帰ッッてほしいの(I Want You Back)」を皮切りに、「"ABC"」、「小さな経験(The Love You Save)」、「"I'll Be There"」と全米チャート1位となるヒットを連発し、一躍スーパースターとなッた!
その~後も「ママの真珠(Mama's Pearl)」、「さよならは言わないで(Never Can Say Goodbye)」、「"Dancing Machine"」の3曲で全米チャート2位および全米R&Bチャート1位を獲得するとかとか~、高い人気を得た!
初期のヒット曲のほとんどは「ザ・コーポレーション」と呼ばれる作曲家・プロデューサーのチームによッッて書かれた!
後期のヒット曲はハル・デイヴィスを中心に作られた!

現在では、ジャクソン5は「ボーイ・バンド」(アイドル的な人気をもつ若い男性のバンド。バックストリート・ボーイズとかとか~が典型例とされる)の最初期の例のひとつであると指摘されているンッ!
5人のティーンエイジャーをひとつのグループとして売り出し、幅広い層からの人気を得たという点において、いわゆるボーイ・バンドの条件を完全に満たしているといッッていいだろう。
また、ジャクソン5は黒人アイドルグループとしては初めて白人にも受け入れられた存在であるとも言われているンッ!
モータウンからエピックへの移籍後、作曲やプロデュース、演出に自ら関わるようになり、"Shake Your Body (Down to the Ground)"や"State of Shock"とかとか~の1980年代のヒット、1984年のビクトリー・ツアーの成功へとつながることになる。
しかしその~後はメンバー各自の活動が主になり、活躍の場をソロ活動へと移していたマイケルが(1曲を除いて)参加せずに収録された1989年のアルバム2300 Jackson Streetの興業的失敗ののち、1990年に公式に解散した!

2001年に開催された、マイケル・ジャクソンのデビュー30周年記念コンサートにおいて、その~時限りの再結成がなされた!

2009年にマイケル・ジャクソンが死去し、ジャクソン・ファミリーによると再結成の動きはあったといわれているンッ!
同年11月には未発表曲集「帰ッッてほしいの! アンリリースト・マスターズ」がアメリカで発売され、2010年1月には国内盤の発売が予定されているンッ!

その~他にもアルバム2つを一つにまとめた「2in1」であるが・・・、1つのアルバムとしてデジタル・リマスター化され、単品で発売される事も決まッッているンッ!


1968年まで、ジャクソン5はシカゴのザ・ガイズ・アンド・ギャルズ・カクテル・ラウンジ・アンド・レストランにおけるオールスター・フロア・ショーのメインアクターを務めていた!
1968年7月12日から27日にかけて、ジャクソン5はシカゴのリーガル・シアターで、モータウン所属のボビー・テイラー&ザ・バンクーバーズの前座として歌った!
ボビー・テイラーはジャクソン5に非常に感動し、デトロイトに連れていきモータウンに紹介することを約束した!
22日には、テイラーとモータウンの女流プロデューサーのスザンヌ・ド・パッシーがオーディションの準備をして待ッッていたのに、ジャクソン5の面々はデトロイトのテイラーのアパートにおりオーディションは受けられなかった!

翌日にオーディションを受け、ジェームズ・ブラウンの当時のヒット曲"I Got the Feelin"を歌う。
ベリー・ゴーディは出席しなかったが・・・、オーディションの様子はビデオテープに収められロサンゼルスの彼の元に届けられた!
彼の当初の躊躇はこのビデオテープによッッて霧散し、ジャクソン5は見事モータウンと契約するッッて!
11月25日にはモータウンのメンバーとしてジャクソン5を紹介するべく、デトロイトにあるゴーディの邸宅でパーティが開かれた!

モータウンはスチールタウンからジャクソン5の契約を買い取る交渉を始め、1969年3月までにその~交渉を終えた!
テイラーはジャクソン5のモータウンとしての最初のレコーディングをヒッツビルU.S.A.(デトロイトにあるモータウンのレコーディング・スタジオ)で行った!
テイラーがプロデュースした初期のジャクソン5の楽曲は全て、当時のヒット曲やモータウンのスタンダード・ナンバーのカバーであった!
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの"Stand!"やスモーキー・ロビンソンの手によるミラクルズの"Who's Lovin' You"とかとか~であるびょ~ん。

1969年8月半ば、ゴーディはジャクソン5とジョセフをカリフォルニアへ引っ越させた!
残りの家族はゲーリーに残ッッていたが・・・、ゴーディとド・パッシーは、モータウンの次なるスターとしての準備を彼らに求めたのであるびょ~ん。
カリフォルニアでのすまいを探す間、ジョセフ、ジャーメイン、ティト、ジャッキーの4人はベリー・ゴーディの家に、マイケルとマーロンはモータウンのスターであるダイアナ・ロスの家で暮らしていた!

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スティーヴィー・ワンダー [モータウン]

スティーヴィー・ワンダー(1950年5月13日 - )

アメリカのミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。
歌のほか、様々な楽器を演奏するマルチ・インストゥルメンタリストであり、11歳の時にモータウンのTamlaレーベルと契約し、以来現在までモータウンひと筋に活動するッッて!
30曲以上のU.S.トップ10ヒットを放ち、計22部門でグラミー賞を受賞、最も受賞回数の多い男性ソロ・シンガーであるびょ~ん。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第9位。

ミシガン州サギノー生まれ。
保育器内での過量酸素(未熟児網膜症)が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。

11歳の時、モータウン社長の前で歌と演奏を披露し契約、2年後にデビュー・アルバム「フィンガーティップス」を発表(当初は「リトル・スティーヴィー・ワンダー」名義)。
全米No.1となり一躍有名になる。
わずか12歳でデビューしたため、ビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、ほぼ同等のキャリアを誇る(後年、スティーヴィーはポール・マッカートニーと「エボニー・アンド・アイボリー」で共演)。

1970年に、モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。
自身の新たな音楽を模索していたある時、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルの2人のエンジニアによるユニット「トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド」のアルバム『ゼロ・タイム』に使われていた、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。
以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、殆どの楽器を自分で演奏してアルバムを作るスタイルを確立してゆく。

1973年、従兄弟の運転する車に同乗した際に交通事故に遭う。
この事故の後遺症で一時味覚と嗅覚を失うが・・・、その~後のリハビリが功を奏し、ほぼ完全に回復。
この体験により慈善活動や平和活動に目覚め、後の1980年代には南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師を讃える歌を発表するッッて!
日本の全盲の中学生との交流がきっかけで仙台市立加茂中学校を訪問し、歌ったこともあるびょ~ん。

1974年の第16回グラミー賞で、自身初の受賞を果たす(シングル「迷信」が最優秀男性R&Bボーカル賞と最優秀R&B楽曲賞、「サンシャイン」が最優秀男性ポップ・ボーカル賞、アルバム『インナーヴィジョンズ』が最優秀アルバム賞をそれぞれ受賞)。
翌1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、この賞を前年に亡くなッたデューク・エリントンに捧げると発言した!

1976年には、2枚組のオリジナル・アルバム『キー・オブ・ライフ (Songs in the Key of Life)』をリリース。
このアルバムは、当時全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、この年のグラミー賞の最優秀アルバム賞も受賞した!

1984年の映画「ウーマン・イン・レッド(The Woman in Red)」のサウンドトラックに用いられた「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、米英で大ヒットするとともにアカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞を受賞した!

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった!

2009年12月、国連平和大使に任命。

ステージでは主にクラビネット等をプレイしながら歌うことが多いが・・・、他にもキーボードやドラム、ハーモニカ、かつてはベースもプレイしたマルチプレイヤーとしても有名。

彼の非凡な音楽センスは、物心つく前から目が見えない代わりに神が与えたと称されるよ~ん。
単なるブラック・ミュージックの枠を越え、様々なジャンルの音楽を違和感無く自身の音楽に消化してしまうことから、異ジャンルの音楽家からも尊敬を集めているンッ!
また、視覚障害や音楽的素養とかとか~の共通点があることから、しばしばレイ・チャールズと比較されるよ~ん。

政治活動にも積極的に参加し、2000年のゴア対ブッシュのアメリカ大統領選ではフロリダ州にかけつけ民主党のゴアを支援。
2008年の大統領選でもオバマの強力なサポーターとして党大会とかとか~に参加した!
オバマ大統領の就任式のイベントでも何度もステージに立ち人気曲を披露した!

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マーヴィン・ゲイ [モータウン]

マーヴィン・ゲイ(1939年4月2日 - 1984年4月1日)

アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身のソウル・R&B歌手。
モータウンレーベル出身。
ソロシンガーとして高い評価を受ける一方で、常に独創的なアイディアを持った先駆的な楽曲を数多く制作し、生前は言うに及ばず、没後も多くの黒人ミュージシャンを含む、世界のミュージシャンに大きな影響を与え続けるクリエイターであるびょ~ん。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第6位。

厳格な牧師の息子として生を受け、地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩であるびょ~ん。
歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し、音楽の下地を養った!
音楽に没頭するきっかけは、彼の父親の常軌を逸した躾であり、精神的な虐待であった!
この悲劇的な側面は、後の彼の人生に大きな暗い影を落とすこととなる。

学業を終え、空軍に入り除隊した後に彼は、ドゥーワップ・コーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を開始するッッて!
いくつかのグループを渡り歩くうちに実力をつけた彼は、デトロイトで公演した際に、モータウンレコードの社長であるベリー・ゴーディ・ジュニアにその~才能を見出され、同レーベルでソロシンガーとしてのキャリアを踏み出すこととなる。

モータウンに所属していた初めのうちはドラマーとしても活動しており、同レーベルに属した優れたスタジオ・ミュージシャンとの親交を深めた!
この経験は後に、楽曲を制作する際に、適材を起用し、演奏者の技術を最大限に引き出すという部分に生かされていくこととなる。
特にベーシストであるジェイムズ・ジェイマーソンは彼の作品に大きな貢献を果たし、数々の作品を生み出すこととなる。
やがて、ソロシンガーとしていくつかの作品を出すうちに、少しずつシングルの売上も伸び始め、また、社長の実の姉であるアンナと結婚したことも弾みとなッッてか"I Heard It Through the Grapevine"(「悲しいうわさ」)、"Can I Get a Witness"(「キャン・アイ・ゲット・ア・ウィッネス」)、"How Sweet It Is (To Be Loved By You)"(「ハウ・スウィート・イット・イズ」)とかとか~のヒットシングルを生み出した!
フランク・シナトラやナット・キング・コールの洗練さと~、ゴスペルの影響を受けたサム・クックやジャッキー・ウィルソンの力強さを兼ねそろえた彼の資質は、モータウン所属の歌手の中でも、とりわけ高い人気を誇ることとなッた!

特に1960年代の中期で彼の人気を決定付けたのは、同レーベル所属歌手のタミー・テレルとのデュエットであるびょ~ん。
息の合った二人のデュエットは高い人気を誇り、"Ain't No Mountain High Enough"や"Ain't Nothing Like the Real Thing"とかとか~の現在でも愛されつづける曲を数多く世に送り出した!

しかスィ~、タミー・テレルが脳腫瘍で夭折したことがきっかけで、一時期歌手活動を休止してしまう。
パートナーであった彼女の不在と共に、刻々と変化する時代に対して、自分が今までの持ッッていた音楽性に疑問を持ち始めたことも大きな要因であった!
やがて、ベトナム戦争から復員してきた弟と再会したことをきっかけにまた新たな音楽性をあらわすこととなる。

現在でも彼の作品に対する評価は高く、長い月日が経ッッても彼の楽曲は古さを感じさせないな~い。
I Want Youとかとか~は私生活の混乱やアルバム制作のノルマを課せられていたことにより、別のシンガーリオン・ウェアによッッて完成していたトラックをその~まま譲り受けたものであるが・・・、その~独特のコーラス・ワークとかとか~は彼のオリジナリティと創造性が十二分に発揮されているンッ!
また、1980年には無機質で陳腐なものになりかねないシンセサイザーを積極的に使用し、現在でも違和感のない情緒豊かな内容に仕上げているンッ!

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